東京高等裁判所 平成3年(ラ)28号 決定 1991年11月20日
抗告人 井上敬子
相手方 渡辺佐和子
遺言者 井上ゆみ
主文
一 原審判を取り消す。
二 本件を横浜家庭裁判所に差し戻す。
理由
一 本件即時抗告の趣旨及び理由は、別紙即時抗告申立書及び即時抗告理由書記載のとおりである。
二 そこで、判断するに、まず一件記録によれば、次の事実が認められる。
1 遺言者及びその亡夫井上啓太郎(以下「啓太郎」という。なお、この夫婦を以下「啓太郎夫婦」という。)と、相手方の父渡辺喜美男及び母渡辺あきえとは、いずれももと群馬県○○○市の出身者であって、かなり古くから付き合いがあった。啓太郎は、我が国のプロ野球の基礎をつくったといわれる人物の一人で、戦後、遺言者とともに○○市に移り住んだが、啓太郎夫婦には実子がなく、何度も養子を探しながら、なかなか縁組するまでには至らなかった。ところで、抗告人は、啓太郎の甥に当たる新井正義及びその妻えりの長女であるが、啓太郎に請われて、将来は啓太郎夫婦の養子になるとの約束で、昭和38年から新井正義及びえりとともに、啓太郎宅と同一の敷地内に居宅を建てて、実質上啓太郎夫婦と同居し、同人らに孝養を尽くしていた。そして、啓太郎夫婦と抗告人とは、昭和52年8月29日に正式に養子縁組の届け出をした。
2 啓太郎は、昭和57年5月11日に死亡した。啓太郎の法定相続人は遺言者と抗告人との2名であり、法定相続分は各2分の1であったが、抗告人は、老齢の遺言者のことを配慮し、相続財産は全て遺言者に相続させることとし、抗告人は何も相続しなかった。そして、遺言者が相続した啓太郎の相続財産の中には、本件で問題となっている後記の預金債権も含まれていた。
3 遺言者は、老衰による心臓機能低下のため平成2年5月9日に○○市○区○○町×丁目××番地所在の○○赤十字病院に入院したが、心不全の状態が続き、平成2年6月3日に死亡した。死亡当時の年齢は、96歳であった。遺言者は、入院当初はチェーン・ストークス呼吸という一時的に呼吸が停止する症状があったが、酸素吸入などの措置によりその症状も大分改善され、同年5月16日(本件遺言書作成の日)前後は、栄養剤の点滴を受けながら、チューブによる鼻孔からの酸素吸入を受けている状態で、意識レベルはまどろんでいる状態から覚醒している状態まで絶えず変化している状態であった。しかし、遺言者は、覚醒している状態のときには意識があり、医師との受け答えをするなど、自己の意思を伝えることができた。
しかし、遺言者は、同年5月18日から症状が急に悪くなり、翌19日には栄養の経口摂取もできなくなって、高カロリーの点滴が始められた。そして、遺言者は、その後も症状の悪化が続いて、前記のとおり同年6月3日に死亡した。
4 相手方は、本件遺言に先立ち相手方が右病院に遺言者を見舞った際に、遺言者から、遺言者名義の預金通帳3通(その預金債権の残高の合計は金3995万5338円。以下これらの預金通帳を「本件預金通帳」といい、この預金債権を「本件預金」又は「本件預金債権」という。)を交付され、その保管を委任されたとして、これを銀行の貸金庫に預けていた。そして、相手方は、これを銀行の貸金庫に預けた際に、銀行員から遺言書を作成したほうがよいと助言されたとして、平成2年5月15日に弁護士である証人吉本久雄(以下「吉本」という。)に電話で相談し、「遺言者の預金通帳を私が預かっている。遺言者がそれを私にくれるといっているが、いつ亡くなるか分からないような状態なので、至急遺言書を作成してほしい。」旨話して、遺言書の作成を依頼した。この依頼を受けた吉本は、翌16日、相手方とともに、遺言者が入院していた前記病院に赴き、主治医の谷川医師から遺言者の病状を確かめ(もっとも、谷川医師は、吉本が遺言書の作成のために病院に来訪したことは、本件審判の申立後に家庭裁判所調査官から事情を尋ねられるまで知らなかったと述べている。)、遺言者には遺言をする能力があると判断したとして、死亡危急者遺言の方式で遺言書を作成することとし、その証人になることを承諾した。
5 そこで、同日午後2時すぎころ、遺言者の病室において、まず申立人が、遺言者に対し、「私に預金通帳3通を預けてくれましたよね。それを私にくれると言いましたよね。」と話しかけ、「そのための遺言書を作るために来てもらった弁護士ですよ。」と言って、吉本を紹介した。これに対し、遺言者は、ただ頷いただけであった。
6 一方、吉本は、事前に、相手方の手帳に記載してあった本件預金の預け先銀行及び支店名、本件預金の種類、口座番号及び金額を罫紙に移記して、手控えを作成した上、同日午後2時20分ころ右病室において、相手方を同病室から退出させるとともに、相手方が事前に証人として立会することを依頼していた福田定夫、大沢トキ及び宮本和子の3名(以下、いずれも姓のみで略称する。)に立会をさせた上、遺言者に対し、「あなたは、渡辺さんに預金を遺贈されるということですが、それでよろしいですか。」と聞き始めたが、遺言者は、口を動かして何か返事をするような態度を示すだけで、言葉がはっきりせず、証人のだれにもその内容が聞き取れなかった。吉本は、遺言者の口許に耳を近づけてみたが、それでもその内容は聞き取れなかったので、大沢に代わって聞いてもらうことにし、大沢が遺言者の口許に耳を近づけて聞いてみたが、同様に聞き取れなかった。そこで、吉本は、遺言者に対し、「はい」、「いいえ」で答えてもよいし、さもなければ、頷くだけでもよい旨を伝え、前記の手控えに基づいて本件預金債権の預け先銀行及び支店名、本件預金の種類、口座番号及び金額等を読み上げて、その存在を遺言者に確かめたところ、遺言者は、「アー」、「ウー」に近い声を発しながら各質問にかすかに頷いている様子であった。そして、吉本が更に遺言者に対し、「あなたに万一のことがあったら、これを渡辺佐和子さんに差し上げるということでよろしいですか。」と尋ねた際にも、遺言者は、同様に頷いている様子であった。
7 右の手続が終わった後、吉本は、事前に相手方から遺言者には養女がいる旨聞いていたので、同人に対する遺贈の有無も確かめる必要があると考え、遺言者に対し、「本件預金債権の他にも財産があると思いますが、養女(本件遺言書中に養子井上恵子とあるのは抗告人のことを指す。)にあげるということでいいのですか。」と聞いたところ、遺言者は、同様に頷いた様子であった。(しかし、証人として立ち会った大沢及び宮本の両名は、吉本が遺言者に養女のこと及び養女に他の遺産を相続させることでよいかとの質問をしたことは聞いていないと述べている。また、福田は、この点について何ら供述していない。)なお、本件遺言書の中に本件預金債権以外の財産を抗告人に相続させる旨の条項を付加することにしたのは、吉本の発案によるものであって、遺言者はもとより、相手方からも依頼されたものではなかった。
8 以上のように、遺言者は、吉本の各質問に対して、頷くなどの様子を示した程度であって、遺言者自らが遺言の趣旨を積極的に口授することはできず、そういうことは一切行わなかった。しかし、吉本は、それにもかかわらず、遺言者が、証人である吉本、福田、大沢及び宮本4名の立会いの上、吉本に対し本件遺言書に記載されたとおりの遺言の趣旨を口授した旨の本件遺言書を作成した。そして、これを遺言者の前で読み上げたが、遺言者は、従前と同様ただ頷くだけであって、遺言の趣旨を理解しているかどうかは証人にはわからなかった。そこで更に、吉本が本件遺言書に記載された預金内容を読み上げて、これを相手方に差し上げることでよろしいですねと尋ねたところ、遺言者は、大きな声で「はい」と答えたのみであった。吉本は、その後、病室外の控室において本件遺言書の表現の一部を手直しし、その欄外に訂正(削除1字)の記載をした上、証人としての署名押印をし、更に福田、大沢及び宮本も、その順序でそれぞれ証人としての署名押印をした(ただし、福田は、指印をした。)。そして、右の手続が終了したのは、同日午後3時ころであった。
三 そこで、以上に認定の事実及び一件記録中の本件各証拠に基づき、本件遺言が遺言者の真意に出たものであるとの確実な心証が得られるか否かについて検討する。
1 まず、本件遺言のごとく、合計金3835万円余もの高額に上る預金債権の遺贈等を内容とする遺言が遺言者の真意に出たものであるというためには、遺言者が受遺者に対しそのような高額の遺贈をするについて、それ相当の原因ないし理由が存在するのが通常であるといわなければならないところ、本件遺言については、そのような原因ないし理由が存在するか否かは大いに疑問である。すなわち、遺言者夫婦と相手方の両親との間には、かなり古くから親密な付き合い関係があったことは認められるものの、遺言者と相手方とは、年齢も約48歳異なり、住所も離れていて、それほど親密な付き合い関係があったとまでは認められない。もとより、右両名の間には、親族その他の縁戚関係は存在しない。更に、遺言者又はその夫が本件遺言の前に財産の管理や療養看護等について相手方の特別の世話になったとか、遺言者が本件遺言の際に将来相手方に特別の世話になることを依頼したなどの事実も認められない。一方、本件遺言の当時、遺言者には、その親族ないし同居者として、養子である抗告人及びその両親がおり、啓太郎の姪に当たる原田里子もいたのである。そして、遺言者とこれらの親族ないし同居者との関係が格別に不仲であったことを確認するに足りる証拠も存在しない(なお、この点に関する相手方及び福田の家庭裁判所調査官に対する各陳述は、それを裏付けるに足りる客観的証拠がないので、にわかに採用することができない。)。そうすると、他に何らかの特別の事情が存在しない限り、遺言者が、これらの親族ないし同居者を差し置いて、何らの縁戚関係等も存在しない相手方一人に対してのみ、右のような高額の本件預金債権を遺贈するということは、甚だ不自然というべきであり、右遺贈について、それ相当の原因ないし理由が存在すると認めることは困難である。なお、もしそれ相当の原因ないし理由も存在しないにもかかわらず、遺言者が右のような高額の遺贈を内容とする遺言をしたとすれば、遺言者には、本件遺言の当時、有効な遺言をなし得る正常な判断能力があったか否か疑わしいといわざるを得ないであろう。
2 次に、本件遺言の内容となった本件預金債権の預け先銀行、種類、口座番号、金額等は、本件遺言に先立ち、相手方が遺言者から保管を委任され、銀行の貸金庫に預けていたとされる本件預金通帳の記載のみに基づいて特定され得たものであるから、本件預金通帳が遺言者から相手方に交付された際の経緯は、本件遺言が遺言者の真意に出たものであるか否かを確認するための重要な徴憑事実であるといわなければならない。しかるに、当時心臓機能低下のためにかなりの重症で入院し、しかも96歳もの高齢であった遺言者が、どのような理由ないし経過で、預金の残高合計が金3995万円余にも上る高額の本件預金通帳を病床に持参していたのか、遺言者が入院中病床でどのようにして本件預金通帳を保管しており、そして、どのような機会にどのような経緯でこれを相手方に交付したのか、更に、その際、遺言者に判断能力ないし口授能力があったか否か、あったとしても、どのような内容の意思表示をして本件預金通帳を相手方に交付したのかなどの点については、一件記録によっても、これを確認するに足りる証拠がない。したがってまた、仮に遺言者が相手方に対し任意に本件預金通帳を交付したものであるとしても、遺言者が単にこれを相手方又は同人を介して銀行に寄託することのみを依頼して交付したのか、それとも、これに記載された本件預金債権自体を相手方に贈与又は遺贈することまで約束して交付したのかを確認することができない。更に、相手方が遺言者から本件預金通帳の交付を受けたという日時自体についても、相手方は、本件遺言の確認の審判申立書中においては、平成2年5月14日であったと記述しながら、原審での家庭裁判所調査官による取調べの際には、同年5月12日であったと供述しており、右の記述と供述との間に齟齬が生じている。
3 民法976条によれば、本件遺言のごとき死亡危急者の遺言においては、遺言者が証人に対し、「遺言の趣旨を口授して」しなければならないとされているのであるから、このような遺言が有効になされるためには、遺言の際、遺言者に、遺言の趣旨を理解する能力(判断能力)があるとともに、その趣旨を口授する能力のあることが必要であるといわなければならない。しかるに、前記認定の事実によれば、本件遺言の際、遺言者に、本件遺言の趣旨、すなわち相手方に対する本件遺贈の内容を具体的かつ正確に理解する能力があったか否か、また、仮にその趣旨を理解する能力があったとしても、これを具体的かつ正確に口授する能力があったといえるか否かについては、甚だ疑問であるといわざるを得ない。そして、この点に関する遺言者の主治医であった谷川医師の原審の家庭裁判所調査官に対する陳述内容も、それ自体に不明確な点が多いのみならず、前記認定の事実に照らして、全面的には採用することができない。
付言するに、民法976条3項所定の遺言確認の審判においては、特定の遺言が遺言者の真意に出たものであるか否かを確認すれば足り、その遺言が同条1項所定の遺言の方式に違背しているか否かは右審判の対象となるべきものではない。しかしながら、遺言の際、遺言者に、遺言の趣旨を理解する能力が欠如又は不足していた場合や、その趣旨を口授する能力が十分になかった場合には、その遺言が遺言者の真意に出たものであるか否かについて疑問が生じるのは当然である。したがって、右審判においても、遺言の際、遺言者に、遺言の趣旨を理解する能力及びその趣旨を口授する能力があったか否かについて慎重に検討する必要があることは明らかである。
4 仮に本件遺言の際、遺言者に、遺言の趣旨を理解する能力及びその趣旨を口授する能力が全く欠如していたとまではいえないとしても、前記認定の事実からすれば、それらの能力は甚だ不完全かつ不十分なものであったといわざるを得ないから、本件遺言書に記載された本件遺言の内容が果して全面的に遺言者の真意に出たものであると認め得るかについては多大の疑問が生じるのを禁じ得ない。すなわち、本件遺言の際、遺言者は、少なくとも本件遺言の趣旨を自ら積極的に口授する能力を全く失っていたため、証人の一人である吉本が事前に用意した手控えに基づき本件遺言の内容である遺贈の趣旨を遺言者の面前で読み上げ、そのとおりでよいかと質問し、遺言者がその質問に対し頷くなどの態度を示したことのみによってその意思の存否を確認し、これを吉本が遺言者による遺言の趣旨の口授があったかのごとく書面に記載して、本件遺言書を作成したものにすぎない。しかも、その際吉本が使用した手控えは、遺言者自らが作成したものでないのはもとより、遺言者の供述内容を事前に録取していたものでもなく、相手方が独自にその手帳に記載していた本件預金の預け先銀行、種類、口座番号、金額等を、吉本が罫紙に移記して作成したものにすぎない。更に、本件遺贈の対象となった本件預金債権の内容が記載された本件預金通帳は、本件遺言の際、遺言者の手許にはなく、銀行の貸金庫に預けられたままとなっていたのであるから、本件遺言の際、遺言者が本件預金通帳によって直接本件預金債権の内容を確認したり、これを指示したりして、遺贈の内容を特定することも不可能であったのである。そして、その結果、現に、本件預金通帳の記載内容と本件遺贈の対象となった本件預金債権の内容との間にも、一部不一致が生じているのである。そうすると、本件遺言については、吉本らの証人による遺言者の真意の取り違えが生じる可能性はかなり大きかったというべきであって、単に前記認定の事実だけから、本件遺言の内容が全面的に遺言者の真意に出たものであると断定することは困難である。
四 以上の次第であって、前記の三で指摘した各疑問点を解明しない限り、本件遺言が遺言者の真意に出たものであると確認することは困難であるというべきである。そして、右の各疑問点を解明するためには、更に新しい事実の調査ないし証拠調べをして、審理を尽くす必要がある。
よって、本件即時抗告は理由があるから、家事審判法14条、家事審判規則19条1項に従い、原審判を取り消して、本件を原審の横浜家庭裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 奥村長生 裁判官 渡邉等 富田善範)
(別紙即時抗告申立書)
抗告の趣旨
申立人渡辺佐和子の申立てに係る横浜家庭裁判所平成2年(家)第1578号遺言の確認申立事件についての同裁判所平成2年12月17日付け審判を取り消し、本件を横浜家庭裁判所に差し戻す。
との裁判を求める。
抗告の実情
1 本件遺言確認事件は、亡井上ゆみ(平成2年6月3日死亡)についての危急時遺言の確認を求めるものであるところ、参加人は、亡井上ゆみの養女で、唯一の法定相続人であり、本件遺言確認事件について利害関係を有するものとして審判手続に参加することを許可された。
2 亡井上ゆみは、本件遺言確認事件で確認が求められているような遺言をする意思はなく、また上記遺言確認事件において、確認が求められている遺言なるものが作成されたとする平成2年5月16日の時点で亡井上ゆみは満96歳5か月の高齢で、かつ心身ともに衰弱しており、遺言の意味を理解し、判断し、意思表示することのできる状態ではなく、いずれにしても上記遺言確認事件で確認を求められている遺言は亡井上ゆみの真意に基づくものではない。
しかるに、原審判は亡井上ゆみが遺言したことを確認しており、正当でない。その理由の詳細については追って明らかにする。
以上のとおり、抗告人は即時抗告を申し立てる。
(別紙即時抗告理由書)
即時抗告理由書
抗告人の抗告の理由は以下のとおりであり、本件遺言書なるものは被相続人の真意に基づいて作成されたものではない。
1 本件事案の特色
まず、初めに指摘しておきたいのは本件は極めて特異な事件であるということである。
被相続人井上ゆみ(以下「被相続人」という。)には、法定の相続人があるにもかかわらず、申立人渡辺佐和子(以下「申立人」という。)は、被告相続人と何らの親族関係がなく、また同居していたわけでも、近所に住んでいたわけでもなく(被告相続人の住んでいる○○から遠方の群馬県○○○市に住んでいる。)、日頃頻繁に交際していたわけでもないのに、96歳5か月の高齢で病気で入院中の被告相続人から3000万円以上の預金を貰う遺贈の意向を受けたと称して、自分の依頼した弁護士と自分の親密な知人を連れて病院に乗り込んで、申立人らの関係者の証言からしてもほとんど口の利けない状態の被告相続人について、遺言書のごとき物を作成し、現在その3000万円以上の預金について相続人を排除して自分の権利を主張しているのである。
2 各当事者の関係
(一) 抗告人と被相続人の関係等について
抗告人(参加人・利害関係人)井上敬子は、昭和52年8月29日に被相続人とその亡夫井上啓太郎の養子となったものである。井上啓太郎は、日本プロ野球の創設に参画し、プロ野球界の要職を歴任するなどの功績のあった著名人であるが、抗告人の父新井正義は、井上啓太郎の甥に当たり、小学生時代は井上家から学校に通っていた関係であるが、啓太郎には子供がなく、何度も養子の候補を探していたが、結局、啓太郎に請われて昭和38年に抗告人の両親及び抗告人を含めた家族が、将来抗告人又はその妹が養子になる予定で啓太郎宅の同一敷地内に家を建てて実質上同居するような形で実の両親以上に啓太郎夫婦に尽くし、その後、双方気心の知れた状態で昭和52年に抗告人が啓太郎及び被相続人の養子となったのである。
井上啓太郎は、昭和57年5月11日死亡した。その際の法定相続人は、養子である抗告人と妻である被相続人の2名であり、相続分は各2分の1であったが、抗告人は、一切の相続財産を被相続人(井上ゆみ)に譲り、被相続人が全部相続したのである。現在遺言の対象となっている預金も含めて被相続人の財産は右井上啓太郎から相続したものである。
申立人は、自分の行動を正当化するために、抗告人ないしその家族が被相続人の財産を狙っていると主張している(調査官に対する陳述)が、抗告人は法定相続人なので財産を狙うなどという理由も必要もないという点は別にしても、抗告人は、右のとおり、啓太郎の死亡に伴う相続の際、自分の2分の1の相続権を被相続人に譲ったものであって、被相続人の財産を狙っているなどという主張は全く根拠のない言い掛かりである。
なお、福田定夫の調査官に対する陳述において、「井上啓太郎の死亡後、敬子の実母が事件本人の家の権利書を持ち出したとかの騒ぎがあった。」と述べているが、これは福田自身が直接体験したのではなく、誰かから噂話として聞いたものと思われるが、事実としては、抗告人の母は、右権利書を持ち出していないのはもとより、右権利書を見たこともない。また、抗告人の母が被相続人の家の権利書を持ち出すというようなことは抗告人やその家族にとって何の意味もない(被相続人及び抗告人両親は同一敷地内の別の建物に住んでいたが、その敷地は一体となった借地であり、例えば被相続人の建物だけを処分するというようなことは意味がないし、また抗告人は唯一の相続人であることからしても、権利書を持ち出すということは何の意味もない。)。要するに、抗告人の母が権利書を持ち出したというような話はだれかの悪意の中傷であり、申立人も本件において、抗告人らが財産を狙っている悪人であるのに対して自分は被相続人と親しい者であるとして周囲の者(遺言書の証人になった者はもとより、病院の医師や看護婦を含む。)に吹聴し、周囲の者を味方に付けて判断能力のない被相続人について強引に遺言書を作成してしまったというのが実態である。
ちなみに、抗告人代理人田川は井上啓太郎と○○ロータリークラブの会員同士で生前親しく交際しており、その借地に関する訴訟でも委任を受けて担当したことがあり、啓太郎宅すなわち被相続人宅を何度も訪問し、被相続人ともじっこんで、もし被相続人が真に遺言を作成する意思があったならば恐らく代理人田川に相談したものと思われる。
(二) 申立人と被相続人との関係等について
亡井上啓太郎は、群馬県○○○市出身で、前記のとおり著名人であり、○○○の多くの人達とも親交があった。啓太郎は申立人の両親とも付き合いはあったが、例えば、啓太郎が○○○の多くの人も含めてパーティを開いたりしたときにも、申立人はもちろん申立人の両親も招待されておらず、また、啓太郎の死後、その一周忌の際も被相続人は申立人の家族を呼んでおらず、申立人の両親との付き合いがそれほど親密なものであったわけではない。啓太郎は、従前から申立人の家族の面倒を見たことがあったので、申立人の親に○○○における賃料の取り立てや墓守のようなことを依頼して一定の報酬を支払っていたので、盆暮れの挨拶程度のことはしていたことは事実であるが、申立人の親は墓守も誠実に行っていたとは言い難い状況だったようで、いずれにしても井上啓太郎ないし被相続人は申立人の家族に高額の預金を遺贈するような義理はなく、そのような関係ではなかった。
また、啓太郎や被相続人の付き合いといっても、申立人の両親との関係がほとんどであって(申立人が資料として提出している被相続人名義の書面の宛先は申立人の母親渡辺あきえ宛であり、申立人宛ではない。)、申立人自身との関係はたまに被相続人を訪ねたことがある程度の関係に過ぎず、被相続人が3000万円以上の高額の預金を申立人に遺贈することは不自然で考えられないことである。
3 各証人の特質及び遺言書が作成されたとする状況について
(一) 証人となった者について
本件遺言書には、証人として、吉本久雄弁護士のほか、福田定夫、大沢トキ、宮本和子の4名が署名している。
このうち、被相続人とそれ以前から親交のあったのは福田のみであるが、福田は当日たまたま見舞いに訪れて申立人に言われて「証人になってしまった」(調査官に対する陳述)というものである(申立人から言葉たくみに一方的な説明を受けて証人になってしまった可能性もあり、立ち会った弁護士も被相続人が依頼したものかと思ったと陳述している。)。福田は、「事件本人から遺産について相談を受けたり話を聞いたりしたことは一切なく、その意思はわからない。」、被相続人は「自分の意思ははっきりしていなかったのではないかと思う。」と述べているのであり(調査官に対する陳述)、むしろ本件遺言が被相続人の真意に基づくものとはいえない旨の陳述をしており、また自己が遺言書に署名してしまったためか、本件に関して裁判所で証言することを拒否している状態である。
このたまたま居あわせたという福田のほかの3人の証人はいずれもそれ以前に被相続人と一面識もなく、申立人と密接な関係にある人間である。危急時の遺言というのは、遺言者自ら記載するわけでもなく、公証人が関与するわけでもないもので、遺言者の死亡後にただ証人だけが遺言者の意思を伝達する役割を担うものであって、そのような重要な遺言者の意思の伝達者が、本件遺言書が真意であったか疑問である趣旨の陳述をしている福田を除いて受遺者である申立人の代理人や申立人と密接な関係のある者のみという事実が、本件遺言なるものが信用できないものであることを示している。
福田以外の3人のうち、大沢トキは、「申立人宅の二軒隣の借家で、生活保護を受けながら一人暮らしをしており、申立人母子には、日頃、何かと世話になっている関係で、申立人からの依頼によって今回の証人になることを引き受けた。」(調査官に対する陳述)というもので、要するにこの大沢トキは申立人のいうことなら何でも聞くような立場の人間である。
次に、宮本和子は、その「夫と申立人の家とが親戚同様の付き合いをしている関係」(調査官に対する陳述)の者であり、やはり申立人から頼まれれば何でも引き受けるような立場の者といえる。
そして、吉本久雄弁護士は、被相続人から依頼された弁護士ではなく、遺言書で受遺者とされている申立人から委任された弁護士であり、委任契約上申立人に対して忠実に行動する義務を負っているものである。危急時の遺言において、前記のように重要な遺言者の意思の伝達者である証人に、受遺者の代理人がなるということは適切ではなく、また、その供述は遺憾ながら非常に疑問のあるものであると言わざるを得ない。
吉本弁護士の行動及び供述に多大の疑問があることの具体的根拠としては、同弁護士が、遺言書に掲記された「その余の財産は養子井上恵子に相続させる。」との部分を吉本弁護士が被相続人に説明したと証言しているが、他の証人は聞いていないと証言していること、また、同弁護士が、抗告人井上敬子の字を遺言書に「恵子」と書いたことについて被相続人がそのように述べたと証言しているが、被相続人がそのようなことを間違えるはずがなく、かつ他の証人はそのようなことを聞いていないことから全く信用できないこと等様々な点があるが、以下において、遺言書の後日の訂正の問題についてやや詳しく説明しておくこととする。
本件遺言書が各証人によって平成2年5月16日に作成された後に、遺言書を訂正するという打診が申立人から証人宮本和子(同人の証人調書7丁裏)及び福田定夫(同人の調査官に対する陳述)に対してあったことは明らかである。
この遺言書をなぜ訂正する必要があったかというと、本件では3通の預金通帳が問題となっているが、そのうち、太陽神戸三井銀行の預金通帳は1通の通帳の中に普通預金と定期預金の両方が記載される方式のものであったのに(本件記録中の右預金通帳の写し参照)、本件遺言書作成のときには普通預金しか記載されなかったため、後日この定期預金160万円についても書き加えようとしたものであり、このことは申立人が「メモする際、太陽神戸銀行の定期預金については書き落としたため、遺言書に盛られなかった。」(調査官に対する供述)と述べ、福田が「申立人から電話があって『預金の額が違っていたので書き直したいので印が欲しい』と言われたが、私は断った。」(調査官に対する陳述)と述べていることから明らかである。
言うまでもなく、遺言書作成の後、遺言者のいないところで、遺言者の承諾もなく、遺言書を訂正して、遺贈の金額を160万円増加させるというようなことは許されない違法行為である。
右のように申立人が宮本や福田に遺言書の訂正を頼んだのは、吉本弁護士の指示ないし了解によるものと容易に判断できる。右遺言書の訂正は自ら証人になっている吉本弁護士の協力なしにはできないことであるし、また、吉本弁護士自身、遺言作成の翌日預金通帳を確認するため申立人を呼んでいることなどを次のように証言している。
「あなたは、本件遺言書を訂正する必要があるという話を誰かにしましたか。」という家事審判官の質問に対し、吉本弁護士は、「しました。というのは、本件遺言書を作成した翌日、預金通帳が本当に存在するかどうか、金額が間違っていないかなどを確認するため、私の事務所へ申立人に預金通帳をもってきてもらいましたが、それを確認したところ、本件遺言書には銀行の支店名と店番が両方書いてあってみっともないので、それを削除したいと思ったからです。」と証言している。
この証言のうち、前半の預金通帳を確認するために申立人を呼んだというのは真実であろう。しかし、遺言書に支店名と店番の両方が書いてあるので削除しようとしたというのは事実ではなく、前記のとおり160万円の定期預金が漏れていたため、それを書き加えようとしたというのが真相であることは前記の各関係者の供述や前後の事実関係を見れば容易に判断できる。遺言書に支店名と店番の両方が書いてあるから、それを削除するために関係者の間を駆け回って訂正印をもらうなどということは考えられないことであり、かつ無意味なことである。ただ、吉本弁護士としては、遺言書作成の後に遺贈の金額を160万円追加するという違法行為に自分も関与して実行しようとしたことを隠すために、説得力のない支店名と店番の件を持ち出しただけであろう(右の160万円の追加が実行されなかったのは、前記のとおり、福田が押印を拒否したために実行できなかっただけである。)。
以上によれば、吉本弁護士は、遺贈金額を無断で追加するというような行為をあえて実行しようとするということであり、かつ自分の行為の正当化あるいは言い逃れのためには証人尋問で事実に反する供述も辞さないということであり、そして、そのことは本件遺言自体が遺言者の意思がはっきりしない状態で強引に作成され、後の証人尋問ではいずれも申立人と密接な関係を有する者達が相計って遺言者が遺贈を承諾したかのごとき供述をしていることを示しているのである(証人達の供述自体からしても遺言者の意思ははっきりしないものであるが)。
(二) 遺言書が作成されたとする状況について
遺言書が作成されたとする平成2年5月16日の状況について、遺言書の証人となっている者の証言によっても、被相続人は明瞭に会話のできる状況ではなく、「アー、ウー」という程度の発音がようやくできる状態であったのである。証人宮本和子も「病人ですから、かんだかい声は出しておりませんが、私どもにもはっきり聞きとれました。アア‥ウウ‥ということです。返事はされたと思います。」と証言している。要するに、被相続人が返事をしたとしても、「アア‥ウウ‥」という程度のものであったのである。
被相続人の様子についての大沢トキの供述は以下のようなものである。
「お婆さんは、何か喋りましたか、それとも喋らなかったですか。どちらですか。
何か喋っていたようですが、私も弁護士さんも聞き取れなかったのです。
何か喋っていたわけですか。
歯がないものですから、何を喋ったのか聞き取れませんでした。
そうすると、貴方と弁護士さんには聞き取れなかったということですか。
はい、そうです。」
前記のとおり、その際証人としていた者たちは基本的に申立人の意を受けた者たちだけであり、申立人に頼まれて遺言書に署名してしまって遺言書の正当性を主張するほかない立場の者たちの裁判所における供述からしても、被相続人の当時の意識状態や発言状態が甚だ心もとない状態であったことが分かる。
証人らは被相続人がコックリしたとか、一度「はい」と言ったなどと証言しているが、これらの証言は前記のような証人達の立場や前後の状況からしてそれ自体極めて信用性に乏しいが、仮にコックリしたような様子があったとしても、96歳5か月の高齢で、かつ病気で入院し心身ともに衰弱している被相続人としては、自分のベッドの回りであれこれ言っている者たちに対して迎合的にコックリしたりしたに過ぎないのであって、これをもって被相続人が遺言の意味を理解して意思表示をした、あるいは本件遺言書が被相続人の真意に基づいて作成されたとは言えないし、民法976条所定の「口授」があったということはできない。
その他、遺言書の遺言者の住所が誤っており、これも真に口授があったとすれば考えられないことであり、また、後記のとおり、井上啓太郎の姪で被相続人と同居していた原田里子について遺言に何も触れていないというのも被相続人が真に遺言をするとすれば考えられないことである。
(三) 谷川医師の供述について
吉本弁護士の証言によると、本件遺言書作成の前に同弁護士は主治医の谷川医師と面会し、被相続人に遺言をする能力があるかを質問したところ、能力があると回答した旨証言しているのに対し、谷川医師の調査官に対する陳述では、「覚醒している状態であれば意識があるので、自己の意思は伝えることはできたと思う。」としている。
このうち、調査官に対する陳述は、特段事実に反していないと思われる。すなわち、当時被相続人は、覚醒している状態において、例えば「暑いですか。」と質問すればかろうじて「アー」と言ったり、「痛いですか。」と質問すれば首を横に振るという程度のことは抗告人やその家族も確認しており、その程度において「自己の意思は伝えることはできた。」のである。しかし、そのことと財産を処分するとか、遺言をするというようなことを判断して意思表示できたかは全く別のことであり、当時の被相続人にそのようなことができたとは考えられない。その点については証人として遺言書に署名した福田も調査官に対して、被相続人は「自分の意思というものもはっきりしていなかったのではないかと思う。」と陳述している。このように当時の財産の処分や遺産についてどうするというような点について遺言書に書けるような確たる意思があったとは思われない。
むしろ、被相続人は抗告人やその家族には遺言書なるものが作成された後においても、通帳は申立人にはあげていないという趣旨を述べている。
遺言書作成の当日、谷川医師が吉本弁護士に対して何と回答したかは明確でないが、この時点における谷川医師の言葉については以下の点を考慮すべきである。
被相続人の今回の入院の後、本件遺言書作成前に申立人は2回ほど病院に行っているようであるが、その際、病院の看護婦長や谷川医師に面会し、事情を知らない医師や看護婦に言葉巧みに自分に有利な説明を一方的にしているのである。すなわち、現在看病している抗告人の母新井えりは被相続人と何らの親族関係がなく、被相続人の財産を狙っている者であるのに対し、自分は被相続人と親しい者であって、被相続人の財産を守ってあげるというような説明をして医師や看護婦が自分に同情し協力するようにしむけているのである。
申立人は冒頭にも指摘したように、本件において被相続人の親族でも特別頻繁に付き合っていたわけでもないのに、病院に乗り込んで遺言書を作成したとして3000万円以上の預金についての自分の権利を主張しているような強引な性格の持ち主であるが、一見上品な言葉使いや、自分は書道家であり、夫は大学教授であるとの肩書等を利用し、言葉巧みに看護婦や医師を自分の側に同調するようにしむけているのである。そして、事実としては、この遺言書作成の時点では、事情を知らない医師や看護婦は申立人に好意的ないし迎合的な態度でいたのであり、谷川医師が吉本弁護士に述べたという内容が被相続人は遺言能力を有すると回答したとしても、そのような事情を踏まえた上でその供述の信用性を減殺して理解する必要がある。
これに対して後日の調査官に対する前記引用の回答部分は概ね妥当な回答である。
なお、谷川医師の調査官に対する供述の中で、「遺言書を作成していたのは調査官から聞いてはじめて知った。」というのは、関係者の供述や前後の事実関係からすると、谷川医師が自分が関わりになるのを避けるための説明であり、真相とは異なると思われる。
4 申立人の預金通帳の持ち出しについて
申立人は、本件遺言確認申立事件の申立書の「申立ての実情」の欄において、「申立人が、平成2年5月14日、遺言者を見舞いに病院に行ったところ、預金通帳を3通託されました。」と書いてあるが、これは事実に反するものである。以下その事情を述べる。
被相続人宅には、原田里子(以下「里子」という。)という者が同居していた。この里子は井上啓太郎の姪に当たり、60歳を越えていたが、他にみよりがなかったので、被相続人宅に同居し、被相続人の身の回りの世話をする代わりに食費等は被相続人の負担で生活していた(なお、このように被相続人が死亡したとすれば、里子はみよりがなくなり、特に収入もないので身の振り方に困ることは明白で、仮に被相続人が真実に遺言をするとすれば、この里子の処遇について何も触れないということは考えられないことであり、その意味でも本件遺言は被相続人の真意に基づかないことが判断できる。)。
ところで、本件遺言書の作成された平成2年5月16日の3日前の5月12日ころまでは、本件で問題となっている3通の預金通帳は、被相続人の自宅にあった。
申立人は、5月12日ころ、被相続人宅に住んでいる前記里子に対し、自分は被相続人から本件預金通帳を貸し金庫にでも預けて保管するように言われたから、同一敷地に住んでいる抗告人の家族らに内緒で被相続人の部屋から通帳を持ち出して自分に渡すように指示し、右12日か13日ころ、里子は被相続人の部屋から本件預金通帳を持ち出して、14日の朝、被相続人宅の近くで申立人と待ち合わせて申立人に通帳を渡したのであり、被相続人から病院で通帳を託されたというのは、事実に反するものである。
これは、かねてこの通帳があることを知っていた申立人(この通帳の件は何かと話題になり、関係者はその存在を知っていた。)は、なにゆえか抗告人ないしその家族に対する強い反感から、被相続人が高齢で衰弱して入院した状況において、抗告人が相続するのを阻止するため里子に指示して密かにその通帳を入手したのである。ここにも申立人の強引なやり方が現れている。
申立人は、遺言書が作成された当日、病院に通帳を持参していない。
被相続人が当該通帳の預金を遺贈する遺言を真に作成するなら、当該通帳を持参して確認するのが最も明確であるのに、申立人が持参しなかった、あるいは持参できなかったのは、申立人が勝手に持ち出したからであろう。
そして、前記のとおり、遺言書作成の翌日に吉本弁護士のところへは通帳を持参しているのである。
5 本件に関する原審の審理方法について
本件においては、既に述べたように、証人になった者のうち、福田は、むしろ被相続人の意思ははっきりしていなかったと調査官に対して陳述しているが、裁判所で証人として供述することは拒否した。
結局、原審は、その審判をするについて、大沢、宮本のように申立人の意のままになる者や、申立人の代理人で申立人に対して忠実義務を負う吉本弁護士のみの証人尋問を行って、それを信用する形で結論を下し、一方において、抗告人やその家族等については、証人尋問を行わなかったのみならず、調査官による調査もさせていない。
本件のような関係者に実際上対立があって問題のある事案(本件遺言に問題のあることは福田の陳述にもよく現れている。)においては、双方から事情を聞いてから判断するのが相当であって、原審の取扱いは一方のみから事情を聞いているのであって、その意味においても、本件は原審に差し戻してもう一度抗告人ないしその家族等の証人尋問あるいは調査官による調査等を行ってから再度判断するのが相当である。